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麻布新広尾町


■ 町域

天現寺橋交差点から古川橋を経て、一の橋に至るまでの古川両岸地区が町域。大きな「く」の字型の、非常に細長い町。一の橋から三の橋までが一丁目、三の橋から古川橋を経て四の橋までが二丁目、四の橋から天現寺橋までが三丁目となる。全域が古川両岸の非常に狭い範囲となっている。現在の住居表示では、南麻布四丁目、同三丁目、同二丁目、同一丁目、麻布十番四丁目のそれぞれごく一部によって構成されている。

川沿いだけを独立させて一町扱いにしたため、非常に多くの町との境界を持つ。北側で富士見町本村町新堀町新網町、薪河岸、芝区の芝新門前町と、東で芝区の芝三田豊岡町、芝三田綱町、芝三田小山町と接する。南で田島町、芝区の芝白金三光町、芝白金志田町、芝三田松坂町と、西で東町山元町網代町、さらに天現寺橋を越えて渋谷区と接する。

■ いわれ

古川両岸の土地は江戸に入っても葦に覆われた湿地であり、人家はなかった。明治に入り都市への人口流入が進み、明治22(1889)年にようやく地図上に土地として表記されるようになった。当時は八郎右衛門新田と記されていた。

正式町名が設定されたのは明治44(1911)年で、麻布新広尾町という名になったのは、麻布広尾町の人々が移転し始めたためらしく、番地も麻布広尾町が79番地で終わるのに対し、新広尾町は80番地から始まっている。

■ 歴史

都市中小河川敷の低地のため、電機、機械などの町工場や鋼材、地金商が多く、日用品店、食堂などもできた。木賃宿と言われる簡易宿泊所が多く、低所得者が集中して暮らすスラムの様相を呈した。大正3年〜4年に執筆された永井荷風の「日和下駄」から以下を引用する:

「溝川が貧民窟に調和する光景の中、其の最も悲惨なる一例を挙げれば麻布の古川橋から三之橋に至る間の川筋であろう。ぶりき板の破片や腐った屋根板で葺いたあばら家は数町に渡って、左右から濁水を挟んで互にその傾いた廂を向い合せている。春秋時候の変り目に降り続く大雨の度毎に、芝と麻布の高台から滝のように落ちて来る濁水は忽ち両岸に氾濫して、あばら家の腐った土台から軈ては破れた畳までを浸してしまう。雨が霽れると水に濡れた家具や夜具蒲団を初め、何とも知れぬ汚らしい襤褸の数々は旗か幟のように両岸の屋根や窓の上に曝し出される。そして真黒な裸体の男や、腰巻一つの汚い女房や、又は子供を背負った児娘までが笊や籠や桶を持って濁流の中に入りつ乱れつ富裕な屋敷の池から流れて来る雑魚を捕えようと急っている有様(後略)」

昭和35(1960)年の港区史では、「現在は戦前よりも環境がよくなった」と書いている。

■ 現況

永井荷風がスラムの惨状を淡々と記した大正初期から90年を経て、町域にはスラムは微塵も存在しなくなった。その代わりに町域は全て首都高速2号線の高架下になってしまった。中小住宅と若干の町工場が混在するが、麻布十番四丁目には高層住宅も建ち、地下鉄入り口も設けられている。かつて新広尾町という細長い町が存在した痕跡は、三田小山町との境界にかかる小山橋手前の区営公園の名前、「新広尾公園」だけなのかもしれない。

■ 町内の坂

なし

■ 町内の神社仏閣

なし

■ 町内の教育施設

なし

■ その他町内にあるもの(あったもの)

一の橋
小山橋
二の橋
三の橋
古川橋
新古川橋
四の橋
五の橋
青山橋
養老橋
龜屋橋
狸橋
天現寺橋


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2004年1月4日公開 2004年2月1日更新


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