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麻布新網町


■ 町域

現代の地図では、環状3号線の新一の橋交差点を中心に、南西側に新網町二丁目、それ以外は新網町一丁目となる。いかにも交差点を中心に区画がされていたように見えるがこれは偶然で、環状3号線も交差する都道415号線(放射1号)(古川橋から一の橋、飯倉片町を経て谷町ジャンクションで六本木通りに合流する)も戦後に出来た道路であり、新網の町域のど真ん中を東西、南北に幹線道路が走るようになったというのが実情である。

古川が北から東へと直角に向きを変える低地沿いの町。南西部を占める新網町二丁目は麻布十番商店街のメインストリート沿いに位置する。現代の麻布十番一丁目の一部、東麻布三丁目のほぼ全域で構成される。北で永坂町狸穴町、東で北新門前町、南で薪河岸新広尾町網代町坂下町、芝区の芝新門前町、芝新門前河岸と、西で永坂町と宮下町に接する。

■ いわれ

江戸時代初期には古川沿いの原野で、明暦2年(1656)の図にはまだ人家はなかったようだ。延宝年間(1673〜1681)に一丁目部分が徳川三代将軍家光の三男徳川綱重の屋敷となり、二丁目部分は堀留と言われる川岸の空き地であった。

古川は延宝3年(1675)に幕府直営の改修事業を施され、新堀川と呼ばれるようになった。現在一帯を「十番」と呼ぶようになったきっかけとしては、この改修工事の際、芝の将監橋から一の橋までを十の工区に分け、その十番目の工区にあたったからだという説が有力であるが、他にも説がある。

宝永頃には徳川綱重屋敷だった場所は御家人たちの住居となっており、宝永4年(1707)に、二丁目町域に芝新網町が移って麻布新網町と名乗った。

■ 歴史

麻布新網町に移ってきた芝新網の住民の一部は二年後に芝新網に戻り、空き地はおいおい御家人衆の拝領町屋敷となったが、その後享保8年(1723)には一丁目南側と二丁目の東半分が火除地となり、二丁目の東西に長く馬場ができ、十番馬場と呼ばれた。馬場では仙台駒の市が開かれ有名になり、馬乗袴は十番仕立てといって珍重されたという。この馬場ができたとき、新網町の他の部分は麻布新網町一丁目と同町拝領町屋となり、仲町の俗称があった。

その後幕末までの間に、馬場の東端に麻布十番馬場町、南東側に麻布新網町二丁目ができ、後の二丁目になる場所は東部植木屋拝領地であったところが飯倉新町拝領町屋に、その東の古川岸には新堀端芝御霊屋御掃除屋敷拝領町屋になるなどの小変化があった。

明治に入ると十番馬場は廃止され、明治2年には上述した町を一括して麻布新網町ができたが、明治4年の六大区制の際に一部は飯倉新町として独立し、明治6年に再び合併、新網町一丁目、二丁目とした。

江戸時代から同町域は商店が多く、活況を呈していたようだが、明治以降はさらに繁昌し、夜も露店が出るなど、麻布区一の繁華街となった。この状況は戦前まで続いたが、疎開と戦災を受け、さらに戦後は道路拡張にあい旧況を失った。

■ 現況

戦災前の昭和16年の地図と、戦災後の昭和35年の地図、さらに東京オリンピック後の現代の地図を見比べると、一瞬どこに新網町の地区があるのか分からないほど大きく町は変化した。特に東京オリンピックを境に町の東西、南北に自動車優先の大通りが出来、首都高速環状線と2号線が頭上に覆いかぶさったため、新網町は一丁目地区と二丁目地区に完全に分断されてしまった。一丁目地区は大通り沿いは中小のビルと若干の飲食店があるが、一本裏は中小規模の住宅街となっており、少しだけだが町工場が残っている。一方二丁目は麻布十番商店街のメインストリートに面し、大江戸線、南北線の二本の地下鉄の開業と六本木ヒルズのオープンにより、一段と活況を呈している。十番商店街のうち、一の橋交差点から見て右側一帯が新網町二丁目域で、商店にはニシモト、永坂更科布屋太兵衛、豆源、鯛焼きの浪花家などがある。一方環状3号線が1990年代に入り青山方面との二つのトンネルが開通したことで交通量が大幅に増え、さらに六本木ヒルズの開業もあり、大通り沿いにもレストランやバーなどの飲食店が増えている。

■ 町内の坂

永坂

■ 町内の神社仏閣

なし

■ 町内の教育施設

なし

■ その他町内にあるもの(あったもの)

麻布十番商店街

■ 参照ページ

飯倉新町
麻布十番馬場町


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2004年1月4日公開 2005年1月23日更新


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