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麻布笄町


■ 町域

現在の西麻布二丁目の大部分、西麻布三丁目の約半分、西麻布四丁目全域に、南青山四丁目のごく一部、南青山七丁目の一部を足した広大な地域。麻布区で最大で最西端に位置する。

町域は笄川(現在は暗渠)の谷を中心に両側が丘陵地帯となっていて、坂が多い。笄川よりも西の、青山側の高台に向かって上る坂は、北から笄坂牛坂御太刀坂堀田坂があり、笄川の谷よりも東の、テレビ朝日通りから六本木へと続く高台に向かう坂は、北から大横町坂紺屋坂中坂北条坂がある。笄川の跡は、外苑西通り(地中海通り)の一本西側の裏を通っている。

笄町は北側で赤坂区の青山南町三丁目、青山南町五丁目、青山南町六丁目と、東で霞町櫻田町三軒家町と、南は広尾町、さらには渋谷区と接し、西側で青山高樹町と接する。

■ いわれ

町内を流れる笄川に架かっていた笄橋に伝説がある。「江戸砂子」によると、天慶の乱(931〜)の際、龍川にさしかあかった源経基を、前司広雄という者が橋に関所を構えて通行を阻んだ際、経基は差していた刀の笄を証拠に与えて通過したという。のちにこの橋を笄橋と呼ぶようになった。

他にも、「こうがい」の語源については、香貝、甲賀伊賀など諸説がある。

■ 歴史

延宝年間(1673〜)頃には町の南側は武家地(高木氏、山口氏)、北部は長谷寺、笄川の東側は下渋谷村、麻布村、麻布三軒家百姓町屋(のちの麻布裏三軒家町)、武家地(遠山氏)となっていた。その後、小規模の武家地などが入り交じり、青山原宿村、櫻田町飛び地、渋谷御掃除町、麻布長谷寺門前などができ、幕末を迎える。

明治初期に武家地と町屋などを合併し、麻布笄町が成立する。その後明治19年に南豊島郡下渋谷村字笄開谷の一部を編入、さらに明治24年に豊多摩郡原宿村飛地字五反田18番地から33番地までを編入した。

昭和39年の東京オリンピックの際に外苑西通りが開通するまでは、周辺は路面電車が専用軌道を通る、ひなびた一角であったようだ。

■ 現況

西麻布交差点から広尾に向かう外苑西通り沿いの両側は比較的高層のオフィスビルやマンションで埋め尽くされてしまった。バブル期に特に激しくビル化が進み、古い町並を残していた道に、一挙に高級レストランが並ぶようになり、「地中海通り」などと呼ばれた。

西麻布二丁目地区は、西側の高台は大きめの住宅が並び、東側の谷にかけては、こぢんまりとした住宅や小規模のオフィスビルが目立つ。北側には、「東京真空地帯」に掲載されている古い住宅街が残る。笄川の暗渠に沿って川の痕跡が残っている。ただし、六本木通りの笄坂沿いは、首都高速の高架がかかり、高層のオフィスビルが並び、レストランやバーが散在している。

西麻布三丁目地区は、霞町との境界にある大横町坂(富士見坂)周辺にレストランやバーなどが点在するが、それ以外の地区は静かな住宅地が続く。ただし、外苑西通り沿いは高層マンションやオフィスビル、それにレストランなどが並んで騒々しい。

西麻布四丁目地区は、笄川暗渠に沿った旧通り沿いは両側にこぢんまりとしたレストランやバーが並ぶが、道幅が狭く車の往来がそれほど多くないため、騒然とした感じはしない。六本木通り沿いは高層ビルが並び、中南米の大使館がたくさん入っているビルなどもあるが、飲食店は坂の上り口に集中してある以外はほとんどない。四丁目地区のほとんどは町内で屈指の高級住宅街となっており、ゆったりした区画に広い邸宅が並んでいるが、徐々に低層マンション化が進み、また、土地相続の問題のためか、一軒の家だった土地が分割される事例もあるようだ。堀田坂から高陵中へと至る道路のけやき並木が見事。

■ 町内の坂

牛坂
大横町坂(富士見坂)
笄坂
紺屋坂(芥坂)
北条坂(鉄砲坂)
中坂
堀田坂
御太刀坂

■ 町内の神社仏閣

長谷寺
大安寺
慈眼院
繁成寺

■ 町内の教育施設

港区立笄幼稚園
港区立笄小学校
港区立高陵中学校
私立若葉会幼稚園
あけぼの幼稚園(今はない)

■ その他町内にあるもの(あったもの)

APAホテル
麻布霞町教会
吉の湯(今はない)
笄川(暗渠)
笄公園
笄橋(今はない)
笄堂(今はない)
香港ガーデン

■ 参照ページ

五反田
渋谷御掃除町


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2003年10月11日公開 2006年1月14日更新

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