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麻布北新門前町


■ 町域

新一の橋から古川に沿って東に向かい、最初の交差点から中ノ橋交差点までが東西の町域となる。南北の奥行きは狸穴公園までなので、約3ブロック程度の小さな町である。全域が古川流域の低地となるが、南が一番低く、北がやや高い。全域が現在の東麻布二丁目に含まれる。北で狸穴町、東で森元町飯倉町北赤羽河岸と、南で新門前河岸薪河岸、古川を挟んで芝新門前町、芝新門前河岸と、西で新網町に接する。

■ いわれ

「北新門前町」という名前から、寺社地の門前かと思われるが、町域及び近隣に大きな寺社はなく、もともと門前町であった訳ではなく、さらに、「北」に対して「南」がある訳でもなく、「新」に対して「元」や「本」がある訳でもない。

古川沿いの低地のため、もともとは低湿地であった。延宝年間(1673〜1681)には武家地になっていた。武家地の西2/3は幕末に至るまで京極氏であり、東1/3は京極氏から青木氏に変わった。町屋は古川沿いにできたが、江戸時代始めは土取場であり、その後は広小路のようになっていたところに、天和(1681〜1684)の中ごろ一時同朋町拝領町屋であった。

■ 歴史

江戸後期文化3年(1806)に、上述の古川沿いの町屋部分に、築地同朋町と南新門前町一丁目の住民が移ってきた。築地同朋町はもともとは芝新馬場同朋町と名乗り、古川岸の馬場跡にあった(芝三田四国町・現芝三丁目)が、古川の改修で整地した後に築地同朋町とも言うようになった。その後住民は神田に移され、さらに御成小路に移され、最終的に上述の通り、文化3年に現地に移された。一方南門前町一丁目は芝の増上寺の南方で、芝南新門前一丁目と名乗っていたが、文化3年に火事で類焼し、移転してきた。

明治2年に両町が合併され、古川南側の土地と共に芝新門前町と称した。さらに明治5年に道路北側の武家地を合併して町域が完成し、芝区新門前町となったが、明治13年(1880)に古川北側だけが分離して麻布区に編入、麻布区芝北門前町となり、明治44年(1911)に「芝」の冠を外した。明治13年の時点で門前町と、突然の字が冠されたのは芝区側の「新門前町」と区別するためと思われる。

明治・大正期は町域は中小規模の住宅が多く、後に町工場も出来たようだ。

町の南端の古川沿いには「新門前河岸」という名の河岸地があり、町と同等の扱いを受けていた。しかし、昭和35年発行の「港区史」の段階ですでに事実上「新門前河岸」は名前のみが存在する河岸地で、町域は北新門前町に自然吸収されたとある。中の橋から新門前橋までが町域だったと「新選東京名所図会」にあるが、新門前橋という橋は現存しない。現在の新堀橋あたりをさすのか。

■ 現況

古川沿いは首都高速2号線の高架橋が架かり、川沿いにはスーパーマーケットや中小企業のビルなどが並んでいる。一方道路の北側は住宅が多く、若干町工場も残っているが、大規模オフィスビルは少なく、中小ビルが大通り沿いに多い。麻布十番商店街からほど近い立地ながら、喧騒からは遠く、静かな町並となっている。住宅もマンション化はそれほど進んでいないようだ。

■ 町内の坂

なし

■ 町内の神社仏閣

なし

■ 町内の教育施設

なし

■ その他町内にあるもの(あったもの)

特になし


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2003年12月30日公開 2004年2月1日更新


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