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麻布霞町


■ 町域

旧麻布霞町は麻布区の西北部に位置する。ほぼ四角形の町域のうち、西側は笄川沿いの低地となり、東側はは六本木の尾根に向かって高くなっていく。町を東西に六本木通りが走り、六本木通りの頭上を首都高速3号線が通っている。

上述のとおり、外苑西通りの西側一本裏には、笄川という川が流れているが、現在は全域が暗渠となっている。また、町域北側の星条旗通りは昭和39(1964)年の東京オリンピック前後までは道路ではなく川であった。笄川の支流の一つである。

現在の西麻布一丁目全域に、西麻布二丁目ののごく一部、西麻布三丁目の約半分、六本木七丁目のごく一部、六本木六丁目のごく一部を足した地域が町域となる。外苑西通り沿いの青山寄りは両側が霞町だが、西麻布交差点よりも広尾よりは広尾に向かって右側は笄町になり、左側だけが霞町となる。

北で新龍土町龍土町、それに赤坂区の赤坂青山南町と、東で材木町桜田町に、南と西は笄町と接する。青山墓地の墓地下までが麻布区に属すが、ここも霞町である。

■ いわれ

江戸期には一帯は武家屋敷であり、町家は存在しなかったという。明治に入り武家地が解放されることにより、ようやく町名がつけられ、明治5年に麻布霞町が成立した。名前の由来は隣の麻布桜田町にある桜田神社(霞山稲荷)からつけられた。

■ 歴史

江戸以前には麻布霞町一帯に人家はなかったようだ。江戸時代に入り、延宝(1673〜)年間頃には、大部分が岩城棚倉藩主阿部播磨守下屋敷となった。また、現在の西麻布二丁目の麻布児童館周辺一帯は、青山原宿村の田畑であった。

阿部氏の屋敷は変化なく幕末まで続いたが、原宿村は時代とともに北部にだんだん減っていき、一部は麻布村となり、小役人が住み着いたという。

明治5年に麻布霞町が成立、その後明治24年3月に元原宿村飛地字五反田のうち、1番地から5番地まで、15番地から17番地までを霞町に合併した(西麻布交差点から青山方面に向かう現在の外苑西通り一帯)。

阿部氏の子孫は明治維新後も一帯北部に居住し、北部高台一帯を「阿部山」と呼んだ。かつては現在の西麻布三丁目、笄町との境界にある大横丁坂(富士見坂)一帯には大横丁という俗称があった。

現在の六本木通りのうち、霞町地区に道路が通ったのは明治末年頃で、大正3年には市電が通うようになり、次第に活気づいたという。

■ 現況

西麻布一丁目側の六本木通り沿いは、バブル期に激しく地上げされ、こぢんまりした住宅やペンシルビルだった箇所がことごとく高層ビルになってしまった。西麻布交差点角には、ブッシュ大統領と小泉首相が訪れた、チェーン居酒屋「権八」が異様な姿を晒している。外苑西通り沿いの霞町側は、比較的個人商店や民家が残っている。もともと小さな住宅の多かった裏通り一帯だが、バブル期から徐々にマンション化が進む一方、六本木通りと星条旗通りに挟まれた狭い地域のせいか、徐々に住宅地からオフィス街、飲食街へと姿を変えつつあるようにも見える。星条旗通りの一本裏の道には、かつては個人商店のパン屋やタバコ屋、呉服屋や駄菓子屋などが並び活気があったが、現在では個人商店はほぼ全滅。無機質な道へと変質した。さらに、環状3号線の六本木トンネルが開通し、西麻布一丁目地域と六本木七丁目地域が分断されてしまい、騒音問題も激しくなっているうえ、六本木ヒルズの森タワーが町域の真南に位置するため、日照問題も発生している。

西麻布三丁目側も、六本木通り沿いは高層ビル化が激しいが、一本裏に入ると閑静な高級住宅地が広がっており、その合間にレストランやバーが点在している。フランス料理店クイーンアリスは、麻布カトリック教会裏の奥まった住宅地の中にある。ゆったりした敷地の住宅が多いが、徐々に低層マンション化が進んでいる。

■ 町内の坂

大横町坂(富士見坂)
霞坂
名前のない坂 その1 霞坂の裏手を通る坂。戸塚食品ストアー正面から、旧阿部邸前に抜ける坂
名前のない坂 その2 星条旗通りの旧東大物理生産研究所前からの坂。笄川支流跡
名前のない坂 その3 六本木通りから星条旗通りに向かって下る坂。阿部邸前を抜ける

■ 町内の寺社仏閣

麻布鬼子母神(現存せず)
出雲大社東京分社

■ 町内の教育施設

私立麻布みこころ幼稚園

■ その他町内にあるもの(あったもの)

麻布カトリック教会
和菓子 和泉家(今はない)
駄菓子屋 福原(今はない)
居酒屋 権八
和菓子 青柳

■ 参照ページ

五反田


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2003年10月11日公開 2005年4月17日更新

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