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麻布飯倉町 (あざぶいいぐらまち)


■ 町域

飯倉町一丁目〜六丁目は、麻布地域で最も東に位置する「コ」の字型の町。町域は現在の麻布台一丁目の南部、二丁目のごく一部、東麻布一丁目の一部で構成され、北、東、南はいずれも旧芝区に接している。北から南に向かって一丁目〜五丁目となるが、六丁目だけは二丁目の西に広がる。これは、六丁目は江戸時代は武家地で町名がなかったため、明治に入ってから六丁目を追加したため、飛び地のような丁目の順となったものである。

町域を東西に外苑東通りが、南北に国道1号線が走っている。また、町域南端の古川沿いの低地を環状3号線道路が東西に走り、赤羽橋交差点で国道1号線と交差している。なお、古川の上には一の橋ジャンクションから伸びる首都高環状線が通り、地下を都営地下鉄大江戸線が走っており、それぞれ芝公園インターと赤羽橋駅が赤羽橋交差点の近くにある。

複雑な形の町域を持つため、隣接する町も多い。北部で我善坊町、芝西久保八幡町、芝栄町に、東で芝公園に接する。さらに南部では芝赤羽町、麻布北赤羽河岸と接し、西部では北新門前町森元町狸穴町飯倉片町仲ノ町に接する。北西部は六本木から続く外苑東通りの尾根沿いの高台で、南東部に向かって古川に沿う低地となる。尾根と谷が入り組んでいるため坂も多く、土器坂雁木坂榎坂三年坂などがある。

■ いわれ

飯倉という地名の起源は非常に古い。「港区史」によると、文書による飯倉の起源は寿永3年(1184)の「神鳳抄」までさかのぼることが出来るが、飯倉は郡郷制が布かれていた時代に穀物を保存する倉があった土地であったため名付けられたと考えられていることから、実際飯倉という地名が成立したのはさらに古く、大化の改新前後までさかのぼるとの説もある。いずれにしても米を備蓄する倉があった場所なので「飯倉」という説で間違いないようだ。

古くは飯倉の地は現在よりもはるかに広く、東は芝増上寺周辺まで、南は三田小山町周辺まで、西は六本木を越え麻布龍土町周辺なども含んでいたようだ。

■ 歴史

飯倉の地は時代とともに徐々に狭くなっていったが、徳川家康の江戸入り前後の時期に町屋が出来始めた頃には、住居表示前まで残っていた飯倉町一〜六丁目、飯倉片町の他に、狸穴町、永坂町、六本木町も飯倉を冠し、飯倉十箇町と呼ばれていた。町屋が出来始めたのは家康の江戸入り後であり、麻布界隈ではもっとも古い時期から町が構成されていた。

最北部の一丁目は別名八幡前と呼ばれていた。すぐ北に接する西久保八幡宮の前だったためで、門前町屋的性格が濃かったようだ。西久保八幡宮は麻布区ではなく隣の芝区に属しており、飯倉町一丁目と芝西久保八幡町の境界は八幡宮の石段のすぐ南を通っており、今も麻布台と虎ノ門の境界がこの地点を通っている。

二丁目、三丁目は現在東京タワー下の飯倉交差点の五叉路周辺で、交差点の北側が二丁目、南側が三丁目である。江戸期にはここを西久保四辻、土器(かわらけ)四辻、飯倉四辻などと呼ばれ、賑わっていたらしい。西久保という地名は現在芝地区の西久保についてのみ言われているが、西の窪地という意味から言えば、広く飯倉の地も指していたようだ。また、この辺りを土器町という俗称で呼んだらしく、明和年間頃まで陶器職人が多く住んだためという。熊野神社脇の通りは熊野横丁と呼ばれ、赤穂浪士の堀部安兵衛が住んでいたという。

四丁目も土器町の一部で、四丁目、五丁目一帯は昔からの平地で、太田道灌が軍を揃えた勝手ヶ原という土地にあたる。赤羽橋に続く大通りは赤羽広小路と呼ばれ、こちらも江戸期には賑わっていた。古川沿いには魚屋が集まり魚市が開かれており、「ちょろ河岸」という名で活況を呈していたという。ちょっと商売をしていくため「ちょっと河岸」と呼ばれたものが変化したものと推測されている。

五丁目地区には江戸後期には、麻布順了寺門前麻布円明院門前などの寺地のほか、芝永井町代地飯倉町続芝永井町代地飯倉町続芝永井町上納地代地があった。また、古川沿いにあった赤羽稲荷神社近くには、芝御霊屋御掃除屋敷代地があった。またこの一帯には「観音堂」、「弁天堂」などの里俗名もあった。

六丁目は南東のごく一部以外は武家地であった。西から上杉氏、稲葉氏の屋敷が並んでいた。 「三軒家」の里俗称があったという。

明治に入り、一丁目は光蔵院地、二丁目は熊野社地、一乗寺地、真浄寺地、天徳寺隠居所及び武家地、四丁目は瑠璃光寺地及び武家地、五丁目は善長寺地、麻布順了寺門前、心光寺地、麻布円明院門前、外国人応接所及び的場、六丁目は武家地を併せ、ほぼ町域ができあがった。

江戸期に賑わっていた土器四辻や赤羽広小路は寂れ、町域一帯は格別特徴のない住宅と商店の町になった。明治末期には六本木方面から飯倉一丁目間と、虎ノ門から札ノ辻間の路面電車が開通した。

六丁目は武家地跡なので他の町域とは趣が異なり、逓信省貯金局(現麻布郵便局)や中華民国大使館などができた。また、現在は移転したが、東京天文台が三丁目にあった。

なお、五丁目の古川沿いの南辺は、麻布北赤羽河岸として一町なみの河岸地であったが、特に合併が発表されることもないまま、いつの間にか自然消滅した。関東大震災前には確かに存在した、と「港区史」にはある。「新修港区史付図 その3」の、「昭和35年当時の港区」地図には、麻布北赤羽河岸は地図上に町名だけ記載されているが、町域は記載されていない。

五丁目の古川沿いにあった赤羽稲荷神社は昭和20年の空襲で被災し、その後再建はならなかった。その後平成6年に三田の春日神社境内に再建され、元来の神社のあった赤羽橋交差点脇には、プレートが残されている。

昨年廃校となってしまった港区立飯倉小学校は設立当初は古川沿い、中の橋の並びに校舎があった。今は首都高高架の下にある麻布消防署飯倉出張所のあたりだろうか。戦前の地図まではこの場所に学校が表示されているので、戦後熊野神社の隣に移ったものだろう。

■ 現況

全町域的に、表通りはオフィスビル化が進んでいる。一丁目、二丁目地域は高台にあることもあり、やや大きめのビルが多い。一歩裏に入ると、現在でも古い中小住宅や町工場も残っている。一乗寺、心光院、熊野神社など、神社仏閣も多い。五丁目は古川沿いの低地で、中小住宅が多い。六丁目町域には郵政公社飯倉分館(旧郵政省)や外務省飯倉公館など、飯倉の字を冠した建造物が多い。都営大江戸線が開通し、赤羽橋周辺の交通の便は格段に良くなった。四丁目区域には鰻の名店「野田岩」がある。

住居表示によって地名の混乱がここでも起きている。飯倉四丁目(現東麻布一丁目)を歩いていたら、「神谷町」を冠したビルが建っていて驚く。芝神谷町も住居表示で町名が消滅したが、日比谷線の駅名として名が残っているため、交通の便を基準に最寄り駅名をビルに着けたのだろうが、飯倉四丁目から芝神谷町までは、間に飯倉三丁目、飯倉二丁目、飯倉一丁目、芝西久保八幡町を挟んでおり、あまりにも離れ過ぎではないだろうか。

飯倉の地名は、今は交差点の名前として残っている他、飯倉小学校と幼稚園などに残っているが、ビル名などにはあまり見られない。

飯倉を「いいくら」と読むか、「いいぐら」と読むか。どちらでも通用しているが、「港区史」では「いいぐら」と濁っている。このページも、それに習って「いいぐら」としている。しかし、町内にある飯倉児童館は「いいくら」と表記しており、町内でも揺れているようだ。ちなみに私は子供の頃から「いいくら」と読んできた。

■ 町内の坂

榎坂
雁木坂
土器坂
三年坂
行合坂

■ 町内の神社仏閣

円明院(今はない)
赤羽稲荷神社(今はない)
熊野神社
一乗寺
心光院
真浄寺
善長寺(今はない)
順了寺(今はない)
瑠璃光寺

■ 町内の教育施設

港区立麻布幼稚園
港区立麻布小学校
港区立飯倉幼稚園(今はない)
港区立飯倉小学校(今はない)

■ その他町内にあるもの(あったもの)

飯倉公園

■ 参照ページ

麻布北赤羽河岸
麻布順了寺門前
飯倉町続芝永井町上納地代地
飯倉町続芝永井町代地
円明院門前
芝御霊屋御掃除屋敷代地
芝永井町代地

■ 写真で見る麻布飯倉町(写真をクリックすると拡大表示されます)

飯倉町一丁目

1. 飯倉交差点から虎ノ門方面を臨みます。現代では道幅が広いため、通りの両側が一つの町とは考えにくいですね。

撮影:2006年12月3日

2. 飯倉交差点のすぐ北にある古い祠。大分前に役割を終え、放置されてしまっているようです。

撮影:2006年12月3日

3. 国道1号線の標識として「飯倉」の地名は健在です。しかし、住居表示にない地名を表示するのは何故でしょう。

撮影:2006年12月3日

4. 飯倉町一丁目のすぐ北隣にある西久保八幡宮です。この鳥居のすぐ左が麻布と芝の境界になっています。

撮影:2006年12月3日

5. ページ上部の地図でも分かるとおり、飯倉町一丁目はほぼ正方形のごく小さな町です。昔は道幅が狭く一体感があったでしょう。

撮影:2006年12月3日

6. 北から飯倉交差点に向かって。大通り沿いはビルが多くなり、かつての町並みを思い起こすことは難しくなりました。

撮影:2006年12月3日

飯倉町二丁目

1. 飯倉二丁目は大部分が宗教法人霊友会関連施設で占められています。写真正面奥には雁木坂があります。

撮影:2006年12月3日

2. 霊友会の建物です。この建物のほかにも周辺にたくさん関連施設の建物があります。目立つ建物です。

撮影:2006年12月3日

3. 霊友会の建物から飯倉交差点に抜ける小径です。この辺りはちょっと道路が複雑で、入り組んでいます。

撮影:2006年12月3日

4. 霊友会の前から出てきて飯倉交差点を臨みます。南北が両側低く東西が両方高いという複雑な地形です。

撮影:2006年12月3日

5. 写真右が国道1号戦で右が霊友会へと続く小径です。飯倉町二丁目は国道1号の東側も含みます。

撮影:2006年12月3日

6. 飯倉交差点です。正面奥の外苑東通りより右側が飯倉町二丁目、左側が三丁目です。黒い建物は名物ノアビルです。

撮影:2006年12月3日

飯倉町三丁目

1. 飯倉町三丁目は飯倉交差点の南側に広がります。土器坂の両側が町域ですが、道路が広すぎて一体感はありません。

撮影:2006年12月3日

2. 外苑東通りと並行して東西に走る細い路地が「熊野横町」です。あの赤穂浪士の堀部安兵衛が住んでいたそうです。

撮影:2006年12月3日

3. ロシア大使館の裏手に広がる東京アメリカンクラブです。入り口周辺だけが飯倉町で、大部分は狸穴町所属です。

撮影:2006年12月3日

4. 土器坂沿いの熊野神社です。熊野神社のすぐ隣に旧飯倉小学校があり、そこが三丁目と四丁目の境界です。

撮影:2006年12月3日

5. 熊野神社の境内です。提灯に書かれているとおり、熊野神社の紋はカラスです。すぐ右奥が熊野横町です。

撮影:2006年12月3日

6. 国道1号線土器坂の反対側も1ブロックだけが三丁目に属します。広い通りとビルで往時をイメージすることは難しくなります。

撮影:2006年12月3日

飯倉町四丁目

1. 飯倉町四丁目は三丁目の南側一帯で、同じく土器坂両側です。町会は三丁目と合同で運営されているようです。

撮影:2006年12月3日

2. 四丁目には有名な鰻屋さん「野田岩」があります。いつも満員大盛況で、私も大好きな鰻です。

撮影:2006年12月3日

3. 惜しまれつつ廃校になった港区立飯倉小学校の校舎は現在建て替え中の児童館と保育園の建物として使われています。

撮影:2006年12月3日

4. 国道1号線にかかる歩道橋から飯倉交差点方向を臨みます。道路が広く右側と左側の一体感は感じられません。

撮影:2006年12月3日

5. 国道1号線の東側には寺院が二つ並んでいます。こちらは心光院。まるで屋根から東京タワーが生えているみたいです。

撮影:2006年12月3日

6.心光院のすぐ隣にあるのが瑠璃光寺です。通りから一本入ると辺りはひっそりしています。すぐ右に東京タワーです。

撮影:2006年12月3日

飯倉町五丁目

1. 飯倉町五丁目は飯倉町で一番南に位置します。南端域は古川沿いの低地です。大江戸線の赤羽橋駅があります。

撮影:2006年12月3日

2. 赤羽橋駅のすぐ隣には首都高速の芝公園出入口があります。江戸時代はこの一帯は河岸場として賑わいました。

撮影:2006年12月3日

3. 赤羽橋交差点のすぐ脇にある住宅には、かつてこの場所に赤羽稲荷神社があったことを示すプレートがあります。

撮影:2006年12月3日

4. 環状3号線から一本裏に入ったところにある飯倉公園。公園の中に「飯倉町五丁目」と記された碑があります。

撮影:2006年12月3日

5. 同じく飯倉公園内にある沿革案内です。休日の昼なのに公園には子供達の姿はなく、辺りはしんとしていました。

撮影:2006年12月3日

6. 五丁目一帯は古川沿いの低地となり、町工場の姿も目立つようになります。細い道が縦横に巡っています。

撮影:2006年12月3日

7. 飯倉町から見た六本木ヒルズです。まっすぐに伸びる道の向こうには麻布十番があり、その向こうが六本木ヒルズです。

撮影:2006年12月3日

8. 赤羽橋交差点です。江戸期には繁華街として賑わったそうです。ここが麻布地区最東端になり、この先は芝になります。

撮影:2006年12月3日

9. 赤羽橋交差点の脇には古川が流れています。江戸時代にはこの一帯は「ちょろ河岸」と呼ばれ賑わったそうです。

撮影:2006年12月3日

飯倉町六丁目

1. 飯倉町六丁目は五丁目からは大きく離れています。写真は飯倉片町の交差点で、奥に見える高層ビルは泉ガーデンです。

撮影:2006年12月3日

2. 首都高の高架のすぐ脇に港区立麻布小学校があります。車の音がうるさくてちょっとかわいそうですね。

撮影:2006年12月3日

3. 外苑東通り沿いに外務省飯倉公館があります。高層ビルが増える中、どっしりした建物が素敵です。

撮影:2006年12月3日

4. 旧郵政省の建物です。一時期は中華民国大使館としても使われていたようです。今は郵政公社が使っています。

撮影:2006年12月3日

5. 裏道に入ると霊友会の建物の脇に雁木坂があります。階段を下ると飯倉町二丁目になります。ひっそりしています。

撮影:2006年12月3日

6. さらに奥に行くと三年坂があります。きれいに整備された石段の坂道で、目の前には我善坊町が一望できます。

撮影:2006年12月3日

 


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2003年11月9日公開 2007年1月8更新

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