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麻布東鳥居坂町


■ 町域

麻布区の中央付近の町。外苑東通りの尾根から南へ続く高台が町域の大部分で、鳥居坂から一気に麻布十番の谷に下る。鳥居坂の名が町名についていて、鳥居坂の通りの高台の部分は道路を挟んで東が東鳥居坂、西が鳥居坂と行儀良く町域が分かれているのに、鳥居坂の部分だけ、西隣の鳥居坂町の町域が東にはみ出しており、東鳥居坂町には鳥居坂がない、という状態になってしまっている。

町域にある於多福坂(おたふくざか)は、鳥居坂の通りから一本裏に入った場所にあるため、地元の人でも存在自体知らない人も多い。坂の中央に長く平坦な箇所がある、珍しい坂だ。

全域が現在の六本木五丁目に含まれる。北で市兵衛町三河台町と、東で飯倉片町永坂町と、南で南日ケ窪町と、西で鳥居坂町六本木町と接する。

■ いわれ

鳥居坂からつけられた町名で、坂の名前の起源に二つの説がある。一つには、宮村町にあった(今は本村町に移転)麻布氷川神社は昔は今よりも大社であり、二の鳥居がこの地にあったためとする説(余談だが三の鳥居は永坂町にあったという)と、鳥居丹波守の屋敷があったためとする説があるが、どうも後者の説が有力なようだ。

鳥居坂町と東鳥居坂町は共に江戸時代は武家地で町名がなく、明治5年になって初めて町名がついた。なぜ小さな地域の町が二つに分割され、別の町になったかというと、明治初期に導入された大小区制の際、鳥居坂町と東鳥居坂町の境界で区が分割されたためである。大小区制はすぐに廃止され、鳥居坂町も東鳥居坂町も麻布区に属すことになったため、別の町名だけが残った。

■ 歴史

江戸期は延宝期(1673〜1681)以降は幕末までずっと武家地であった。それ以前の様子は不明。延宝期には、町域南から鳥居丹波守、松平丹波守、有馬左衛門佐などの屋敷があったが、享保8(1723)には旗本らの屋敷地に分割されていた。その後も小変化を繰り返し、幕末を迎える。

江戸期には式内社という竹長稲荷の旧地であり、台地を竹千代が丘と呼んだという伝説もあるようだ。

明治5年に武家地を集め町名を付ける際、鳥居氏の屋敷のあった地域が東鳥居坂町となり、屋敷のなかった西側地域が鳥居坂町となった。明治以降は大邸宅が並んだが、明治35(1902)年頃は、全町域が久邇宮ほか数名の邸宅で構成されていたという。邸宅地以外では、堀口学校、市立麻布小学校、麻布尋常中学校、東洋英和女学校などがあった。その後麻布区役所もできた。

■ 現況

明治期のような大邸宅は姿を消し、マンション化したが、港区役所麻布支所、東洋英和女学院などがあり、落ち着いた高級住宅地となっている。ただし、外苑東通り沿いの地域にはレストランや外国人向けのクラブなどが並び、一晩中人通りが絶えない状態であり、裏側にも最近飲食店が点在するようになっている。シンガポール大使館脇から入った奥にある潮見坂一帯は車の通行が制限されており、とても静かな一帯が続く。

■ 町内の坂

於多福坂(おたふくざか)
潮見坂(しおみざか)

■ 町内の神社仏閣

なし

■ 町内の教育施設

東洋英和女学院

■ その他町内にあるもの(あったもの)

フィリピン大使館


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2004年1月17日公開 2006年1月21日更新


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